Project Story

無謀の先には希望しか見えない

2018年06月

若き日の挫折

2002年8月、世の中は「平成の大合併」で盛り上がっていました。
当時、私は大学院の後期博士課程で発生生物学の研究をしていましたが、生まれ故郷が合併されるという事態に危惧を覚えました。

そのときの私の結論は「合併した新しい市の議員になろう」というものでした。
そのためには自営業者になることも一番の近道ではないかと考え、2003年4月に大学院を単位習得退学をして地元に戻り、自動車個人売買の仲介業を行うFCに加盟しました。

しかし、このFC事業は成功することなく廃業。
学生時代にバイトをしていたという理由だけで学習塾を始めることにしました。

小さな学習塾から始まった

2004年3月、岐阜県可児市に小さな学習塾(想論館)ができました。
無名の学習塾に誰も入ってくれず、最初は7名からのスタートでした。

流れが変わったのは最初の期末テスト。
100点満点を含め、たくさんの生徒たちの成績が急上昇しました。
そして、たった1年で126名もの生徒が通う人気塾へと成長しました。

そんな想論館の理念は「自分で問題を解決する能力を養う」でした。
今でこそ「自立学習」がもてはやされていますが、当時は自立学習と自習との区別すらついていない状態でした。
しかし、私は、自立学習が子どもたちの教育の主力になると確信していました。
それは「自立支援教室」を商標登録するほどの強い意志でした。

「人は学ぶことで何にでもなれる」
塾講師として子どもたちに学ぶことや行動することの大切さを指導してきました。
かつて子どもたちに伝えた言葉通りの人生が送れているか自問自答が続きます。

震災が全てを変えた

2011年3月、私は塾経営者として充実した日々を過ごしていました。
校舎は拡大し、500名以上の生徒が想論館に通っていました。
それらの校舎は校舎長が責任を持って運営してくれたので、私は悠々自適な生活を送っていました。

そこに東日本大震災が発生しました。

私は、大学時代を宮城県で過ごしていたため、強い衝撃を受け、自分の原点を思い出しました。
そもそも、生物学者の道をあきらめたのは学習塾経営者になるためではなく、生まれ故郷で政治家になるためだったこと。

ただ、私は単に政治家になりたいのではなく、都市に吸収されてしまう故郷のために政治家になろうと思っていました。
そのため2004年に合併協議会が解散したことで政治家になる意志はすでになくなっていました。

しかし、震災の影響で、再度、故郷の存在を認識したとき、少子高齢化に喘ぐ過疎自治体がそこにありました。

「このままではいけない」

震災からわずか数ヶ月後の2011年8月、私は生まれ故郷である八百津町の町議会選挙に立候補しました。

しがらみのない政治を目指した果てに

2015年10月、その2ヶ月前に二期目の当選をしていた私は大いなる選択を迫られました。

当時、保育園統合問題が町民の強い関心事でした。
私は、今の時代に合った保育サービスを提供することが、少子化対策に有効だと考え合併推進の立場でした。

それより前に実施された若い世代のアンケートで統合賛成が反対を上回っていたこともあり、
若い世代で構成された検討委員会でも統合の方針が確認されました。

しかし、当時の町長が引退を表明すると事態は大きく変わりました。
元々、高齢者の方々は地元の保育園が統合されてしまうことに反対されていたこともあり新しい町長候補の方々は統合反対の姿勢。

結果、当選してわずか2ヶ月後には議員をやめて町長選挙に立候補することを決意しました。
自分でも在任2ヶ月での辞職に対する批判は感じていましたが、統合推進派のけじめとしての立候補でした。

そして、2016年1月の町長選挙で落選しました。

2016年1月、経営者に戻ったものの、既に直営の学習塾は暖簾分けによって縮小の方針でした。
また、2012年に教育事業、2015年に介護事業とフランチャイズに加盟しており経営の第一線からは退いていました。

もちろん、そのままオーナーとして悠々自適な生活を送る選択肢もありました。
しかし、政治家時代に社会福祉の古い体質と社会的弱者の現状を経験したこともあり、再起業を決意しました。

2016年に会社の体質改善と資本強化を達成すると、2017年に攻めの経営に転じました。
2016年の年末にパート、アルバイトを含め26名だった会社が、わずか1年半で3倍近いスタッフが働くようになりました。

私の野望は未だ道半ばです。
無謀が希望となることを確信し、挑戦は続きます。